【農業の匠】 芋農家 尾曲 幸良さん:後編
今日は、尾曲さんと手掛けるお芋作りの具体的なお話をご紹介します♪ また、30年のお芋作り経験を持つ尾曲さんの意外なご経歴と、この道に入るきっかけとなったあまりにも突飛なエピソードもご覧いただきたいと思います。(*´∪`*)
□芋農家:尾曲 幸良さん (後編)
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私がお芋作りをする際に常にこだわっているのは、「お芋と会話をすること」です。
4月の苗付けに向けて、土を仕込んでいる今の時期も、苗付けから収穫までの間も、毎日畑に出て、お芋たちの声に耳をかたむけています。
自分の子供を育てる感覚と似ていますが、言葉を発していなくても、「土に酸素を与えて欲しい」「水が飲みたい」「お日様の光を浴びたい」と、お芋たちの気持ちがわかるようになってくるのです。自分だけの解釈かもしれませんが、この感覚はとても大切です。
そのお芋たちの声に合わせて、「今年も美味しい宝山を造るために、立派な原料になってくれよ!」と言葉をかけながら、して欲しいことをしてあげる。そして、苗付けが始まったら、1日たりとも気を抜けません。だから私たちは、人の時間ではなく、お芋の時間で生きる必要があるんです。
農業は1年に1回しか経験を積むことが出来ない仕事ですが、お芋を本気で大切に育てる気持ちさえあれば、誰にでも良いお芋を育てることができます。お芋たちの気持ちを理解し、それにきちんと応えられるようになるには、やはり5年は経験が必要ですが、自分達が創ったお芋がどう仕込まれて、どんな焼酎になって、どう飲まれているのか?それを理解し、想像できるようになると、仕事はどんどん楽しくなります。
ちなみに、私がお芋作りを始めたのは、36歳の時です。
学生の頃から海外で仕事をしたい!という想いが強かった私は、実家がやっている農業よりも貿易の仕事に魅力を感じ、商船学校を卒業してから原油のタンカーに乗る仕事をしていました。その世界で15年ほどのキャリアが積んだころ、仕事でメキシコに滞在していた私のもとに、実家の弟から一通の電報が届きました。
「父危篤、帰ってこい。」 と。
3月30日にその電報が届き驚いた私は、その日に会社に退職願を出して、次の日には日本に向かいました。飛行機の中で、「父はいまどんな様子なのか。万一のことがあった場合、悔いのない人生だったのか。」と、いろんなことを想いながら実家に到着すると・・・、
危篤なはずの父が笑顔で、「おかえり!」と私を迎えました。
「弟にやられた!」と思いましたが、すでに退職届を出してしまっています。父と弟の気持ちを汲み取り、「俺は農業をやろう!」とその場で決意を固めました。
そんな滅茶苦茶な始まりではありましたが、今ではこの仕事が楽しくて仕方ありません。また幸いなことに、今では二人の娘の婿が、私といっしょに畑に出て、跡取りとしてお芋作りを支えてくれています。私は生涯を賭けて、お芋の可能性を掘り下げて、もっと美味い!を追求していくことを決めています。
最後に宝山ファンの皆さまへ。
私は宝山のことを敢えて「ふつうの焼酎」だと言っています。
美味しいかどうかは、飲み手である皆さまが決めることですし、
私にとっては、宝山こそが本当の「芋焼酎」だと思うからです。
宝山を飲まれる際には、薩摩の地で逞しく育つお芋たちの様子と、日々、新たな焼酎の可能性に掛ける蔵人の皆さんの様子を思い浮かべて、末永くお楽しみいただきたいと思います。
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尾曲さん、熱いメッセージをありがとうございました!